佐々木正洋のいまさら聞けない一般常識 ベテランアナがやさしく解説

2018.08.20

第31回 今も受け継がれている「石原裕次郎さんの男気」

石原裕次郎さんが亡くなって2018年でもう31年になります。

先日、裕次郎さんのご命日7月17日に全国縦断「裕次郎の軌跡」展の記者発表会が催されました。
僕は光栄にもその記者会見の司会に指名され、自分では何とか無事にその役目を果たせたと思っています。とにかく石原プロモーションのスタッフの皆さん、舘さん、神田さん、そして石原まき子さんの温かかったこと、後から思い出しても涙が出そうなくらい感激しました。

佐々木は『何をオーバーに石原プロをよいしょしてるの!』と言われそうですが、言われてもなお、この喜びはわからないだろうな、と思うと一層胸を張りたくなるというものです。僕がテレビ朝日の社員でいた時ならまだしも、大きな看板がなくなってフリーになっている僕に対してですから、感謝しかありません。生き馬の目を抜く芸能界で、事実こういった出来事に遭遇できるというのは何と幸せなことかと思うばかりです。

何がそんなにうれしいのか。それは今、殆どの世界で見られなくなった【男気】です。裕次郎さんの持っていた【男気】が原点で今でもずっと受け継がれているんです。そしてその【男気】を僕にもみせてくれるんです。だから、嬉しいんですね。

裕次郎さんの男気が強烈に発揮されたのは、当時、岩よりも固い「五者協定」を打ち破った時でした。

かつて石原裕次郎というとてつもないトップスターが娯楽の権威である映画会社に反旗を翻し、所属映画会社、日活を飛び出しました。1962年(昭和37年)、彼が28歳の時です。一時は血の涙を流さんばかりに苦悩したといいます。たった一度だけまき子さんに「だめかもしれない」と弱音を吐きたった一度だけ涙を見せたそうです。

しかし1968年、映画『黒部の太陽』が大ヒットします。制作・主演を務めた石原裕次郎は映画界に革命を起こしたのです。それまで鉄の掟であった五社協定を有名無実化したんですね。この五社協定、それぞれの映画会社に所属する俳優は他の映画会社の作品には一切出演できないというものでした。これに異を唱えた石原裕次郎には、「自分が必ず枠を乗り越えて真に面白い映画を作って見せる」という「大望」があったんです。だから三船敏郎、宇野重吉、寺尾聡、滝沢修、志村喬、監督は熊井啓、音楽が黛敏郎と当代一流の”役者“のそろい踏みと相成ったんです。強大な映画会社を向こうにまわし、何するものぞと立ち上がったんです。その時代、そのまま日活にいても大スターの座が約束されていた石原裕次郎の「大望」こそ【男気】なんですね。

ちょうど記者会見を開いたときTBS『爆報THEフライデー』が僕の密着取材をしていました。その為、石原裕次郎さんの写真を借りるといったこともあって、番組スタッフが石原プロに赴きました。そこで対応してくれたのが、石原プロの浅野謙二郎取締役です。写真使用料金を支払いに行ったのですが、浅野取締役が口にしたのは「石原プロは“佐々木さん”をバックアップすると決めたんですから写真使用料は要りません」の一言。舘さんが言ってくれた「佐々木君ってアナウンサーって感じじゃなくて、仲間みたいなんだよね」という言葉を思いだしました。番組スタッフは驚きながらも「佐々木さんの人徳ですよね」と僕に世辞を言ってくれました。違います。これが石原プロの【男気】なんです。

    佐々木 正洋
    佐々木 正洋
    1977年アナウンサーとしてテレビ朝日入社。16年間担当「夕刊キャッチアップ」の最高視聴率16%は今だ破られず。また、2002年出版の「ちょっとしたコツで誰でも『上手な話し方』が身につく」は、当時現役局アナとして近年初1万部を突破。猪木の闘魂ビンタの元祖。2012年独立。テレビ、ラジオで活躍の他、各種イベントの司会や講演を行い、「雑誌ネット」で記事批評を載せ、駒沢女子大学で講師を務める。インターネット、新聞などで世相を斬る、コラムニストでもある。北九州市観光大使